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連載第9回 明治期・長崎における産業経済界の大恩人・リンガー
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南山手の観光長崎の拠点、グラバー邸とオルト邸に挟まれて、国指定重要文化財のリンガー邸がある。
この建物を作ったフレデリック・リンガーは、1838(天保9年)にイギリスのノーフォーク州ノーリチ(Norwich)で英国国教会牧師の次男として生まれ、25歳で中国広東省にある「フレッチャー商会」で茶の鑑定士として活動中に、トーマス・グラバーに請われて、1864(元治元年)来崎し、「グラバー商会」で、茶の輸出を監督する幹部社員として勤務した。
1868年(明治元年)には、同僚のE・Z・ホームと共同で「ホーム・リンガー商会」を設立。ホームやオルトが帰国し、「グラバー商会」が倒産した後も、それらの事業を引き継いだりして、多くの外国商人が横浜や神戸に移転していくなか、長崎に踏みとどまって2人の子息とともに各種事業を展開して長崎の産業経済界に大きく貢献した。
「ホーム・リンガー商会」の事務所は、初め大浦11・5番にできたが、のちオルト商会本部跡の同7番(現・D’グラフォート長崎)の地に移った。
同商会は、対欧米貿易においては、当初は茶を輸出し、後に機械、造船材料、鉄板、板ガラス、カージフ炭、オレゴン松材、羅紗、毛織物、洋酒類などを輸入・販売し、英米の銀行、汽船会社、海上火災保険会社、海難救助協会、ロイズ船舶協会等の代理店業務を取扱った。
対中国アジア貿易については、香港系会社の砂糖・水銀等の特約一手販売を行うほか、中国各地に支店を増設して商圏の拡張を図った。
国内では、唐津から石炭、函館から天然水を移入し、下関に商会の支店として「瓜生商会」を設立。企業方面としては、製粉所、蒸気洗濯所、皮なめし工場、ガス会社、発電所、沖仲士組合、トロール漁船会社(詳しくは次回掲載予定の「長崎水産界の恩人・倉場富三郎」で解説)、捕鯨会社などを設立した。
なかでも、日刊英字新聞「ナガサキ・プレス」の発刊や、本格的西洋式ホテル「長崎ホテル」の建設は、時代のさきがけとしてきわめて意義深く、よく話題になることがある。
リンガーは、1906(明治39)年、健康上の理由で帰国し、翌年11月29日故郷・ノーリッチで亡くなった。
享年69歳。
長男のフレディック・E・E・リンガー(1884〜1940)は、オルト帰国後の旧オルト邸に住み、父の跡を継いでいたが、1940(昭和15)年、56歳で亡くなった。
次男シドニー・アーサー・リンガー(1891〜1967)は、下関に住むなどしていたが、この年、商会の閉鎖を命じられ、上海に行き戦争の勃発で捕虜生活を余儀なくされた。
戦後の1952(昭和27)年に来日。門司で「ホーム・リンガー商会」の共同出資者になるなどし、長崎で営業を再開しようとしたが、困難と分かり、財産を売り払って帰国。1967(昭和42)年、76歳で亡くなった。
なお、フレディック・リンガー(父の方)の兄に、病院でお世話になる「リンゲル液」(生理的食塩水)を考案した医学者のシドニー・リンガー(1835〜1910)がいる。
長崎都市経営研究所所長
長崎学研究家 宮川 雅一 |
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