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ふとぶえ
朝あけて船より鳴れる太笛の
な
こだまはながし竝みよろふ山 茂吉 |
これは、長崎市役所近くの桜町公園に建つ日本の代表的歌人・斎藤茂吉の歌碑に刻まれた長崎港を詠んだ本人自慢の作品である。この歌碑は、昭和31年(1956)10月、長崎アララギ同人達が、茂吉寓居のあった東中町54番地(現・上町)が近いことから建立したが、風化が激しく同51年(1976)4月、小振りに建て替えられた。
斎藤茂吉は、明治15年(1882)5月14日、山形県南村山郡金瓶村(現・上山市金瓶)の守谷家の三男に生まれ、東京に出て精神科医・斎藤紀一の婿養子となる。シーボルトの研究で有名な恩師の呉秀三東大教授の指示で、長崎医学専門学校教授となり、長崎に3年3ヶ月滞在し、医学教育・研究のかたわら、高谷寛、大久保日吐男、前田毅、大塚十九生などの医学生らをはじめ・土橋青村、渡辺与茂平(庫輔)、松本松五郎、原美智子などの地元の人々に短歌の指導をおこなった。
この間、郷土史家の古賀十二郎、長崎県立長崎図書館長の永山時英、長崎高等商業学校教授の武藤長蔵らと親交し、長崎の歴史に親しみ、市内外にある神社・仏閣・教会や名所旧跡に足を運んで短歌を詠んでいる。その一方で、当時世界的に大流行したスペイン風邪に罹り、結核にも悩まされ、長崎県立長崎病院(現・長崎大学医学部付属病院)西2病棟7号室での入院生活や雲仙、唐津、古湯、西浦上六枚板の金湯、小浜、嬉野の各温泉での療養生活を体験している。その、病気見舞いに、同じアララギ派歌人の島木赤彦、平福百穂(日本画家)、土屋文明が長崎を訪れ、また、たまたま来崎した芥川龍之介、菊池寛、与謝野鉄幹、与謝野晶子、吉井勇との面談の機会を持った。
茂吉が正式に長崎に赴任したのは、大正6年(1917)12月18日、午前5時5分着の急行であった。その前の11月7日から13日にかけては、下打合せに来崎している。今町(現・金屋町)・みどりや旅館に投宿。翌朝、そこの窓から長崎港を眺めて、前記の短歌「太笛」が詠まれたのである。
茂吉の歌碑は、市内にもう1基ある。寺町・興福寺の山門を入ったところである。
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長崎の昼しづかなる唐寺や
おもひいづれば白きさるすべりのはな 茂吉
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昭和36年(1961)、興福寺保存会が建立した。この短歌は、帰京後に長崎を回顧して詠まれたもので、
茂吉は長崎でも白や赤のさるすべり(百日紅)の花の短歌を詠んでいる。なお、茂吉が長崎を離れたのは、大正10年(1921)3月16日、午後11時・長崎駅発の列車であった。
長崎都市経営研究所所長
長崎学研究家 宮川 雅一 |
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