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長崎歴史文化博物館の敷地に「明治天皇皇臨幸之址」(昭和11年11月1日)と記した石碑がある。
明治天皇紀によれば、明治天皇(満19歳)は、明治5年6月14日陸軍大将・西郷隆盛(満44歳)を筆頭供奉員として、軍艦龍驤で長崎に行幸し、各地を視察された。
14日、払暁、神島南方に到着するが、波浪が高く午後4時、長崎港口に進み、同5時20分入港し、飽の浦と大浦の中間に投錨する。端艦に移乗して大波止に特設された桟橋から上陸、同6時、島原町(現・万才町)の行在所(高木家屋敷・現長崎地方裁判所の地在)に入られた。この日、市内各戸は注連を張り、万歳奉祝と書いた提灯などを掲げ、ロシアの軍艦をはじめ港内停泊の艦船や大浦の外国人居留地も点灯、四方の山々には燎火が焚かれて、夜の市内が明るく輝いた。
15日、行在所で県下各地の産物や県民所蔵の古書画などの文化財を天覧、炎暑激しく氷塊を天津から運んで行在所に備えた。この夜、風頭山で煙火をあげた。
16日、午前7時御出門、当時長崎奉行所立山役所跡(現・長崎歴史文化博物館の地在)にあった長崎県庁を視察後、大波止から端艇で、同9時長崎造船所所轄の小菅修船場、同11時、飽の浦の工部省所轄の長崎造船所へ臨幸、昼食後、各部の工作を巡視して、行在所にご還幸。
この夜は同庭前で海軍軍楽隊が演奏。
17日、午前6時御出門、同7時御召艦へ移御、鹿児島へと出航した。
西郷隆盛は当然この全行程を天皇の側近くに供奉して同行しているが、薩摩藩がグラバーと協力して作った小菅修船場(現・国指定史跡)を感慨深く眺めたことであろう。また、当時文部省に直属していた広運館(現・長崎県庁の地在)と医学校(現・佐古小学校の地在)にも臨幸の予定であったが、暑中休暇中でできなかった両学校の処置を憤り、当事者に進退伺いを提出させたとか、某県民が「天皇の洋服着御を止めたまわんことを請う」建白書を出したのに対し、某を引見して「汝未だ世界の大勢を知らざるか」と大喝した、といったエピソードを残していて、明治天皇紀に記述してある。
西郷隆盛はこの5年後、長崎が政府軍の海軍基地となった西南戦争の首謀者として亡くなるが、これを最も悲しまれたのが、明治天皇であった。なお、西郷隆盛は幕末に2回ほど、坂本龍馬らと薩摩の船で長崎港へ来ているようである。上陸したという確たる証拠はまだ見当たらないが、上陸していれば、当時西浜町(現・銅座町)にあった薩摩藩蔵屋敷(現・三菱UFJ信託銀行の地周辺在)に滞在している。
今年は、西郷隆盛生誕182周年、没後132周年である。
長崎都市経営研究所所長
長崎学研究家 宮川 雅一 |
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