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英国商人トーマス・ブレイク・グラバー(1838〜1911)の混血の息子・倉場富三郎=トーマス・アルバート・グラバーは、明治3年(1870)12月8日に生まれた。
学習院で学んだ後、米国・フィラデルフィアのペンシルベニア大学医学部予科の生物学課程に入り、卒業はしなかったが2年間、魚の研究などをして優秀な成績を残し、明治25年(1892)、大学を去る。
翌年、長崎のホーム・リンガー商会の社員となり、入社間もなく下関支社へ転勤、1年間を過ごす。
長崎に戻り、以後、日本人と外国人の仲を巧みに取り持って仕事に励み、商会内で着々と昇進する。
外国人居留地が廃止される前年の明治32年(1899)には、日本人・外国人相互の親睦を図る
「長崎内外倶楽部」の結成に中心的役割を果たし、明治37年(1904)には、出島に自ら設計した同会館
が完成する。
現存するその1階には、富三郎を囲んで撮影された内外会員の集合記念写真が掲げられている。
明治40年(1907)10月、ホーム・リンガー商会が、わが国発の蒸気トロール船を使う「長崎汽船漁業」を設立すると、富三郎が専務取締役に任命され、漁場における既存漁業者との利害の調整をうまく図ったりして、業績を伸ばしていった。まさに、長崎水産業界の先駆者であり、恩人である。
さらに、明治45年(1912)には、歌人・若山牧水の高弟としても知られる中村三郎など地元の画家を
雇って、魚の写生を開始。「日本西部及び南部魚類図譜」、通称「グラバー漁譜」を21年の歳月と莫大な
資金を投入して完成した。
その貴重な現物は、現在、長崎大学水産学部が所蔵していて、平成17年、長崎文献社によって出版
された。
大正2年(1913)、全国でも珍しい県営の雲仙ゴルフ場がオープンするが、これは前記「長崎内外倶楽部」に集う外国人の要望に応えて、富三郎が万事お膳立てしてできたといわれている。
また、諏訪神社の氏子となるなど、日本人として長崎人社会へ溶け込む努力も惜しまなかった。
しかし、戦争が、時代が、富三郎の希望も努力もすべて無にしてしまった。
昭和20年(1945)8月26日、進駐軍上陸の報を聞き、遺産は長崎市役所に寄贈するという遺書を残して、2年前亡くなったやはり混血の愛妻・ワカの後を追うように自宅で自殺してしまう。
父トーマス・ブレイク・グラバーの胸像は、グラバー邸の庭園の目立つ場所に建立されていて、毎年秋の
「グラバーまつり」の時には、その前で顕彰式が行われている。一方、富三郎の胸像は、グラバー邸のなかにあって、静かに訪れる観光客を迎えている。
なお、グラバー家の墓は坂本国際墓地にあり、日本で亡くなった一族が眠っている。
長崎都市経営研究所所長
長崎学研究家 宮川 雅一 |
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