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NHK大河「ドラマ龍馬伝」応援企画A
龍馬も出入りした土佐商会を作り高島炭鉱を経営した後藤象二郎 |
土佐藩士で坂本龍馬と身分や恩讐を超えて「大政奉還」を推進した後藤象二郎は、龍馬や三菱創業者の岩崎弥太郎とともに、高知県出身者の中で極めて長崎にゆかりの深い人物であり、この3人は長崎で結ばれたといっても過言ではない。
後藤象二郎は、2人に約3年遅れて天保9年(1838)、高知城下で、2人が郷士や地下浪人といった下級武士の出身であったのに対して、れっきとした藩士、上級武士の家の長男に生まれた。義理の叔父で開明的な人物として知られる吉田東洋に文武両道を学び、アメリカ帰りの中浜(ジョン)万次郎から海外情勢を聴き、世界地図をもらう。
藩内の東洋派として出世街道を走るが、東洋が武市半平太(瑞山)率いる土佐勤王党に暗殺され失脚。その後、江戸の幕府開成所で、航海術・蘭学・英学を学習中、山内容堂から帰国命令を受け、土佐勤王党の獄の断罪審判を担当し、半平太に切腹を申し渡す。
東洋の遺策で藩近代化推進機関である開成館を設立。参政に正昇格して、慶応2年(1866)、長崎に出張し土佐開成館貨殖局長崎出張所(土佐商会)を開設して、船舶の知識を持ち英語の話せる万次郎を連れて自ら上海に渡航し、汽船の買い付けなどを行なう。長崎ではフルベッキなど外国人と交際する。
慶応3年(1867)1月、東洋・半平太関係からいっても仇敵ともいうべき龍馬と、榎津町(現・万屋町)で秘密裏に会談。意気投合して海援隊長に任命し、相協力して「大政奉還」への道を驀進する。このとき、土佐商会における商業活動の後事を託したのが、象二郎が抜擢して土佐から呼び寄せた、当時微禄の岩崎弥太郎であった。
龍馬・象二郎の菱社が政治活動の最中、4月には海援隊が借り受けた大洲藩船・いろは丸と、紀州藩船・明光丸が夜の瀬戸内海で衝突する事件、7月には丸山で起きた英国軍艦・イカルス号水兵殺害の嫌疑が海援隊員にかかる事件が突発した。この時3人は、長崎を舞台に一致協力して、親藩紀州藩や強国イギリスを相手に、土佐藩に有利な解決に向けて懸命の努力を尽くした。この年11月、「大政奉還」の実現を喜んで間もなく龍馬は京都で暗殺される。
明治維新後、弥太郎がもっぱら企業家の道を進むのに対して、象二郎は、当初困難な外交事件の処理に当たり名をあげ政治の道に入り、一時は新政府中枢の参議等を務めるが、明治7年(1874)の「征韓論」政変で下野し、本格的企業活動を目指して蓬莱社を設立、高島炭鉱の払い下げを受ける。
明治10年(1878)には、小曽根町海岸に後藤炭鉱舎の事務所と石炭置き場を作り、自ら長崎に乗り込み指揮にあたるが炭鉱経営は困難を極めた。
象二郎の政治的素質を惜しんだ慶應義塾福澤諭吉が渋る岩崎弥太郎を説得して、炭鉱を三菱が譲り受け、象二郎は政界へ戻る。
弥太郎の弟で後継者、妻が象二郎の娘でもある岩崎弥之助の時代に高島炭鉱は優良炭鉱へと発展を遂げていくのである。
長崎都市経営研究所所長
長崎学研究家 宮川雅一 |
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