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1万円札でおなじみの福澤諭吉が長崎を訪れたのは、嘉永7年(1854年)2月のことであった。兄三之助の奨めで蘭学を志し、兄に同行して長崎に遊学した。最初に草鞋を脱いだのは桶屋町の向陽山光永寺。
ここが母方の里である中津藩家老の息子奥平壱岐がすでに遊学滞在中で、それを頼ったのである。
中島川に面する山門横に、「福澤諭吉先生留學址・安政元年」(裏面「昭和12丁丑年5月・長崎三田會建之・小泉信三撰並書」)と記す石碑がある。
同寺の本堂は原爆で大破し、戦後再建されたものであるが、庫裏は当時のままで、諭吉が寝泊りしたという広縁も残っていて、私も「学さるく」で拝観させていただいた。
しばらくして諭吉は、砲術家の山本物次郎宅へ移る。
そこは当時、町司(使)町といわれた、現在は出来大工町の区域内で、大井手町に近接する一画である。
ここには、地役人で奉行所などの警護を役目とする町司(使)達の居宅が並んでいて、町乙名が支配する
大井手町や出来大工町とは、木戸で隔てられた地役人の別天地で、山本物次郎はその頭取であった。
諭吉は、ここに居候して、家事も手伝いながら砲術や蘭学の勉強をしたのである。道路敷(市道)に当時の共同井戸が残っていて、ここには「福澤先生使用之井・安政元年」(裏面「昭和12丁丑年5月・長崎三田會建之・小泉信三撰並書」)の石碑が建っている。
諭吉の長崎滞在は約1年で、翌安政2年(1855年)2月、江戸を目指して旅立ち、大坂の緒方洪庵が営む蘭学塾「適塾」にとどまることになる。
長崎ではその頃、ロシア使節プチャーチンが軍艦3〜4隻を率いて通商を求めて長崎港に再々出入りしたり、オランダ東洋艦隊所属の軍艦・スンビン号が入港して、その艦長ファビウスが地役人や警備の黒田・鍋島両藩の家臣に海軍の初歩を教えたり、イギリス東インド艦隊司令長官スターリングが軍艦4隻を率いて来航し、日英和親条約を調印するなどしたりして、その対応に長崎奉行所は多忙を極めていた。
諭吉は、その奉行所に光永寺住職の年始あいさつにお供して出掛けたり、師匠の山本物次郎の代理として出島に出入りしたりして、当時わが国の外交最前線を見聞し、海外・国際問題に大きく眼を開かされたのであった。
長崎奉行所立山役所が一部復元された長崎歴史文化博物館に隣接する諏訪神社境内の参道には、
平成10年(1998年)1月、長崎三田会によって「福澤諭吉先生の像」が建立され、毎年10月のおくんちに、長坂下の踊馬場で繰り広げられる奉納踊りを腕を組んで眺めている。
ちなみに、諭吉が長崎にいた安政元年(1854年)のおくんちには、諭吉が住んでいた桶屋町も町司町に隣接する大井手町や出来大工町も、船大工町・本石灰町などとともに踊町として参加している。
長崎都市経営研究所所長
長崎学研究家 宮川 雅一
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