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連載第7回 女傑の茶商人・大浦お慶はねずみ年生まれ
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油屋町の橋本ビル(西沢ほか)の前に、「大浦けい居宅跡」と記す石碑がある。
今から180年前、干支は戊子の文政11年(1828)6月19日、日本茶輸出のさきがけとなった大浦慶が
ここで誕生し、生涯をすごした。
かつての大きな屋敷は、お慶没後、宝屋旅館となり、明治36年(1903)には英国留学帰りの夏目漱石が一泊している。
その後、橋本商会第2代・橋本辰二郎(長崎商工会議所・第6代会頭)の居宅となり、戦後の旅館・清風荘時代を経て、昭和43年(1968)橋本ビルが建設された。
お慶は、日本開国直前の嘉永6年(1853)出島に来航したオランダ人テキストルに嬉野茶の見本を託し、3年後の安政3年(1856)イギリス貿易商オールトが長崎に来て巨額の注文をする。
以後、オールトと提携して、大浦外国人居留地に製茶工場を作って、欧米に茶を輸出して成功を収める。
幕末、長崎に来遊した坂本龍馬、陸奥宗光、松方正義、大隈重信といった人物と交友し、維新の大業を陰で支えたといわれている。また、長崎商人が誇りとする、くんち傘鉾(油屋町)の一手持ちもしたらしい。
明治4年(1871)タバコにかかわる肥後藩士や長崎の有名な通詞が絡んだ詐欺事件(遠山事件)に巻き込まれて、巨額な保証かぶりをするが、商人道を貫いて苦労を重ねて約2年契約でオールト商会への保証債務を完済する。
明治12年(1879)来崎した国賓の前アメリカ大統領グラント将軍から、日米貿易功労者として栄誉の艦上接待を受け、長崎県令・内海忠勝等と軍艦リッチモンド号に乗船。グラント夫妻らと歓談した。
死の前年、明治16年(1883)には、長崎県に「長崎港製茶輸出経歴概略」を提出。死の
10日前、農商務大臣の茶業振興功労褒賞と功労賞金20円が決定。明治17年(1884)
4月13日、57年の波乱の生涯を終えた。
その直後ごろから、自由党代議士・伊藤仁太郎(痴遊)が政治講談に取り上げ、多分に虚構を交えた女傑・大浦お慶像が作られる。
戦後、司馬遼太郎作「龍馬がゆく」がNHK大河ドラマとなり、女優の左幸子がお慶役を好演し一躍有名となった。
最近は、疑問の多かった経歴や史実の解明が進んで、信用を第一とする「商人道」に生きた真実の「大浦慶」像がようやく明らかにされようとしている。
大浦家の墓は、清水寺を上った高野平(現・高平町)にあって、お慶は今そこで、先祖とともに静かに眠っている。
長崎都市経営研究所所長
長崎学研究家 宮川 雅一
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